休日コラム グローバル社会と教育
先日のブログで若いうちから考える、情報入手のための手段を学ぶという
ことを私はのべました。
日本の生徒たちが考えていない訳ではなく、また情報入手のための
いろいろな方法を知らない訳ではありません。
しかし、「学校」で何をどのようにして学ぶかということが
根本的に考えられるべきと私は思っています。
考えるだけでなく、それを人々に伝える方法も学ばないといけません。
社会人であれば、プレゼン能力やスピーチ力となるのでしょうが、
このような要素は大学生になるはるか以前から訓練されて身につくと思います。
そのようなことを学ぶためには、「覚えて暗記する」という
作業だけでは不十分と思われます。
また、暗記したものは、時が経てば忘れていきます。
忘れてしまってもいいという認識があるから、日本の大学生は、
世界的に見て、勉強量が圧倒的に少ないのではないかと思わざるを得ません。
グローバル社会が経済の世界で到来してから、
世界言語としての英語の重要性がより認識されるに至りました。
しかし、それでも英語は国民の間に定着はしていません。
「だから日本の教育はダメだ」ということはありません。
私の経験の範囲では、ヨーロッパとアジアの国々で、
タクシーに乗って、英語が通じないのは日本のタクシーで英語が
通じないのと同じようなものです。
しかし、それで安心しないのが、本来の日本の文化ではないかと思うのです。
そのように考えられたが故に、日本は明治維新から現在に至るまで、
アジアの国のなかでは、先頭を切って世界でも注目されるようになりました。
問題はこれからにあると思います。
そこをどう乗り切るか、すべてはこれからの教育にかかっています。
私は留学を専門としていますが、その範囲をより拡げて、
教育という視点から考える、そのような年にしたいと思います。