#6 - 学ぶことの面白さ
<前日のブログに続きます>
覚えることに重点が置かれ、その程度が試験されて合否が決定するという日本型受験の問題点は試験を受ける側の考え方や対処方法が問われないことです。受験者の知識の量 ―その一部に過ぎませんが― を計ることができても、その豊富さが量的に証明されても、それをどのように使うかを知らなければ、訪問者のいない図書館と同じことで、その機能は全うされません。
そもそも覚えることが無限大であると言ってもいいなかで、それを年に1回、各教科1-2時間程度の試験で合否を判定することそのものに無理があると思います。しかしながら、試験という根本が変わらない以上それに対応するためには、試験の傾向と対策を十分に理解して対処することが大切です。かくして、過去の試験問題が専門家の人たちによって研究され、教科書に準拠して覚えるべきところが網羅されます。それを着実に、不備なく、継続してこなしていくことが、合格に結びつく有効な手段になります。
この合格のための軌道というのは、一旦乗ってしまえば、スムーズに進んでいくのかもしれません。但し、この受験の全体の構図のなかには、社会に出たとたんにもとめられる自らの意見なり考え方ということが驚くほどに求められていないのではないでしょうか。
試験という今の日本の制度のなかで、受験者の意見や考え方を求めた場合、それは○×方式では採点されませんから、点数つけという問題があります。加えて、採点する側も受験者の意見をどうとらえるかということを数値化するのはとても無理があります。
留学生をお世話していて、英語がある程度話せる生徒でも「なぜ留学したいのですか」と英語で質問して、明確に答えが返ってくる人は100人のうち1-2人です。日本語で同じ質問をしても、第一声までに10秒以上の時間がかかり、そこで初めて「うーん・・・」というのが日本の小学、中学、そして高校1年生くらいまでの現実です。
これは、日本の生徒たちに思考力がないということではありません。アカデミック(学問的)な環境のなかで、「どう思いますか、どうしたいのですか」という問いかけが極めてまれだからそうなると思います。
英語圏の教育では、特に留学生においては、そもそも「どう思いますか、どうしたいのですか」という問いかけから留学生活がスタートするといっていいと思います。クラスでも、寮でもホームステイでも、絶えず「あなた」の意見が求められると同時に、「なぜ」という問いが発せられることになります。
つづく