外からみる日本2 驚異の学習姿勢
<昨日のブログに続きます>
現代の企業文化を支える大きな要素としてコンサルタントの存在があり、それに従事する人々がおおよそ異文化で学び、その社会や仕事も経験するなかで日本の良さ、その特性を尊重していることを先日のブログで書きました。
日本以外の国の最高学府で学び、活躍する人々が称賛する日本人の精神があるからこそ、日本は開国以来世界がアッと驚くような歴史的な快挙をなしてきました。もちろん、快挙だけではありません。反省すべきところも当然あります。それは世界の歴史が物語っている人類の宿命でもあると思います。
さて、今日の外からみる日本のテーマは生徒たちの学習に対する姿勢です。英語圏では褒めて生徒を伸ばすことを基本に教育が行われますが、日本はあまり褒めません。スポーツ、音楽、芸術においてもこの「褒めない」という基本は確実に生きています。おそらく、この耐える教育、欠点を修正することに中心を置く教育を英語圏で行えば、ボーディングスクールはもとより、多くの学校が崩壊してしまうのではないかと思います。
一方、日本では小学校時代から好むと好まざるとにかかわらず子どもたちは講義形式の学習プログラムを淡々とこなしていきます。中等教育までは、全国的に教育内容が統一されているので、教える側が迷うこともありません。教育も規格に則って淡々と進みます。その規格進路を学校のみならず、学校外でも塾や家庭教師といったシステムが補足します。
この学習ラインを当たり前のようにほとんどの生徒がこなしていけるということ自体が日本以外の国、特に英語圏の国から見ると実は驚異ではないかと思います。学校以外での塾、家庭教師など、1日の学習時間という視点から日本の小学生と海外の小学生を比較すると、日本の子どもたちの学習時間が英語圏に比べてかなり多いのではないかと思います。それが、実効的に身になっているかどうかはさておき、それを子どもたちが受け入れて、それに基づいて生活していることが、英語圏の教育者からみれば驚異に値するでしょう。
このような学習姿勢があるからこそ、日本からの留学生はその年齢が低下して小学校の高学年からであっても、異文化に適応できるのではないかと私は思います。日本の学習文化は、集団で学ぶということがあるので、当然、個人の意見や自己主張は少なくなります。それが解放されるのは、大学生になってからかもしれません。
つづく