使える英語の学習-1
英語はコミュニケーションの道具として必要不可欠です。私たちにとってこの大切な外国語をマスターするためには、そうするべき心構えが最も重要です。
語学のマスターは決して能力や才能ではありません。そのことは、人間であれば誰でも言葉を話せることからして自明なことがらです。必要に応じて、言葉は学習されればいいのであって、言葉そのものについていかに知識が豊富であっても、それがコミュニケーションの手段として使えなければ、言葉本来の役割を果たしてはいません。そのような学習が面白いわけがありません。
あくまでも学習の主体は「自分」にあります。特に言葉はコミュニケーションの道具であって、そのものが目的にはなりません。自分が何を求め、何を達成したいのかが明確でなければ、言葉の知的学習はうまくいきません。すなわち、いつも目標がボケている、あるいはふらついている状態です。では、中等教育時代での留学で果たして「自分」がはっきりと確立するかというと、それほど簡単にはいきません。ただし、日本から留学した生徒たちは、自分に与えられた環境のなかで、必死になって考えます。この「考える」という精神の活動がひいては、彼らを強くし、人格を高めるための基礎を作ります。
考えた結果を実行するために、留学生にとって言葉ほど重要なことはありません。そのために彼らは、必死になって英語を学びます。その学びの場は、教室だけに限定はされません。むしろ、役に立つ英語は教室外で学ばれることのほうがはるかに多いのです。しかし、それは「英語のシャワーを浴びる」などという環境から生まれることではありません。もし浴びているだけで学べるのであれば、英語を学びたいと思った人は誰でも英語をマスターしているはずです。
使える英語学習で必要なことは、自分の意志として学習モードを確立することです。留学生たちは、好むと好まざるとにかかわらず、必要に迫られて英語を学びます。学ばなければ、現地での自分の存続が危ういという無意識の危機感が彼らをそうさせるのです。だから、彼らの誰に聞いても、英語マスターの過程を客観的に説明できる人はいません。ただ、時間の経過とともに、英語が徐々に理解できるようになって、1年もたってみると、英語が使えていたということになります。
つづく