その2 学習を渇望する環境
<前日のブログに続きます>
前日のブログの最後、「自分の精神に対する強烈な衝撃とそれを回復するための自助努力」とは、危機感とそれに対する行動ということです。今の日本の人たちは「平和ボケ」、「危機感の欠如」、「指示待ち」などと言われていますが、どのように言われようとも、それぞれの人が個々の現状に大きな不満を感じ、その解消方法を外に向けることなく、自分の人生のあり方としての認識のともにモーレツなチャレンジをしない限り変えられるものではないと思います。
中等教育機関への留学はその危機感を人工的に作り出すことが比較的に容易にできます。
今まで、実生活の現場で使ったことなどない言葉の使用、人間関係が全くないばかりか、生活様式や文化習慣の違う人たちとの共同生活、そのような環境の中で、「学び」という高度な精神活動を行うわけですから、黙って、のんびり、言われたことをやる、あるいは、言われた通りにやるという今までのルーティーンは通じません。
このような環境だからこそ、年齢にかかわらず自分が持っている「知識」や「技術」がそこで生きていくために役立つと無意識に理解でき、それが無ければ獲得するに努力し、既存のものがあれば、最大限に活用する知恵を絞るのです。もちろん、生徒によって、知識を深めるレベルや技術習得度合は異なります。また、個人の特性により、能力の発揮場所と時期が異なります。多くの生徒が、英語の知識や技術など、全くない状態で渡航しますから、最初に受ける文化的、社会的衝撃は、彼らの今まで生きてきた常識を根本からひっくり返すようなパワーを持って、彼らに迫ってくるわけです。
そのような時に、子どもたちは大人が想像できないような柔軟性、適応性、順応性、学習力、応用力を見せます。
学習面において「火事場の馬鹿力」的な変化が留学の日常生活の中で起こった場合、そのやればできるという意識は自然と子どもたちが身につけ、無意識に進歩していくのかもしれません。
この学習ノウハウは、留学して一定の成果を収めた経験のある人ならば、すなおに理解できるので、留学経験のある親は、わが子の中学時代からのいわば早期留学に対しても抵抗なく受け入れられるのではないかと思います。
現状を打破する危機感を作り出す留学における学習と、なるべく現状を変えず決められたことをこなし続けるという日本式の学習スタイル、どちらに価値観を見出し、選択するかはこれからの時代を生きる家族にとり、正面から取り組んでもらいたい課題であると思います。