小学・中学・高校留学 - 「どうしたいの」に応える教育
留学生の現地での問題に対応する時、
「それで、君はどうしたいの」と私は生徒たちに尋ねます。
「そうじゃなくて、宿題が多すぎるんですよ」、
「わからないままに、授業が進んでいくので、追いつけないんです」
「ルームメイトが、好き勝手放題、信じられないです」
「このままで大丈夫なのか、とっても不安です」
生徒たちの不満や不安が私の耳に届くときは、大きなトラブルにはなりません。
彼らの持っている人間としての力は、その精神的負担を取り除けば
おおよそ自力で再生していくからです。
すなわち、どうしたいということを導いてやれば、彼らはそれに挑戦する
精神力を本来持ち合わせているのです。
「そんなに都合よくいかない。ほっておけば失速する。人生は甘くない」
はい、そのようなご意見、私は真摯に受け止めます。そのうえで、
私が申し上げられることは、コンサルタントという立場から少し離れて、
留学生の親として自分の息子を高校3年間、留学させた経験に基づいています。
「お前はどうしたいのか」という投げかけを私は何度となく、息子にしました。
彼の留学生活に親として不満があったからです。
その不満は、現地から半年に一度もたらされる成績によって
おおよそ発生し、思いめぐらすうちに、成長し、表面化するというものです。
そこで、「どうしたいのか」という問いをやめて、
私自らが息子を遠隔操作しようとしたのです。
今まで、数回にわたり、ブログで述べましたが、
国際電話で英語を教えました。
人間力というのは、もしかすると年齢には関係なく、
誰にも備わっているヒトに固有な潜在能力なのかもしれません。
息子のケースはおそらく、父を落胆させまいという意識が働いたのでしょう。
3か月ほどの間、週に3回くらい、1回1時間くらいのペースで、
受験のためのネット講座よろしく、私は息子に英語を教えました。
結論としては、この試みは父の自己満足を満たすものだったのです。
本来であれば、息子のやる気を私は見抜けたはずです。
しかし、「親ばか」意識は、客観的観察力を低下させます。
息子の「どうしたい」は親の「どうしたい」と一致することは
ありませんでしたが、彼は卒業後、自分の好きだったコンピュータの
世界へさっさと移り、社会人となっても自分の好きな分野の仕事をしています。
彼の「どうしたい」を私は今になってはっきりと認識します。
しかし、留学時代は親子ともども、「どうしたい」の持つ重要性を
明確にはできなかったのだと思います。
それが明確になるのは、10年後と考えて、そのイメージを大切にすれば、
あおのずと、今、どのように子どもと対峙したらいいかが見えてくると思います。