日米入試の比較 SATの役割
昨日のブログで、日本とアメリカの大学入試における「試験」について、日本がその機会が1年に一回であるの対して、アメリカの場合SATは生徒の任意で受けられることが決定的な違いであることを私は述べました。
日本の受験システムがもしアメリカ方式を採用すれば、予備校や塾、そして学校までもが試験攻略のための徹底した対策を講じることでしょう。ではなぜ、アメリカのみならず、欧米ではそのような教育文化が発達しないのか。
ボーディングスクールの教育文化を考察する限りでは、単純に試験のためだけの勉強というのが、味気なく、つまらないものであるからと思います。試験に出るから学ぶのではなく、必要だから学ぶという精神が英語圏の学校では、当たり前にとらえられていると思います。
ボーディングスクールの授業を見学すると、生徒数が一クラス10名前後と大変少ないからかもしれませんが、先生は生徒とのやり取りを大切にしています。人文系のクラスでは、クラスの生徒全員が向かい合って話せるようにオーバルテーブル(大きな楕円形のテーブル)に全員が座るのが当たり前になっています。
ディスカッション、発表、質問、返答など生徒同士のやり取りも可能な場合も多く、先生はクラスのナビゲーター(案内人)といった役割を演じているように思います。
授業が楽しいということが、ボーディングスクールの教育の原点にあるように思います。もちろん、現実は、ディスカッションや発表などの背景には、日々たくさんの生徒に課せられる課題、宿題があり、生徒たちはそれを授業外でこなすことで、本来覚えなければならないものごとを知識として「主体的」に吸収するのです。
SATで出題されることは、難解ではなく、あくまでも母国語と数学の基礎知識を問うものです。その証拠に日本人のSATにおける数学の点数は一般的に英語セクションと比較してダントツに良く、日本で数学が得意であった生徒であれば、英語力ハンディがないとすれば90%以上の点数は達成できると思います。
難関ボーディングスクールのアメリカ人生徒であれば、SATの英語セクションと作文セクションは90%くらい達成できるというのも事実です。すなわち、アメリカの大学入試においては、センター試験の役割を負うSATは母国語と数学に関する基礎的な力を問う問題であり、生徒を振り落すための試験ではありません。その点が、日本のセンター試験の役割と明確に異なる点であると思います。
つづく