日曜コラム 英語レッスン3
2週間余りの英語レッスンが金曜日に終わりました。
学ぶスタイルは生徒によって千差万別、目から情報を入れることを
得意とする生徒もいれば、聞くことの情報処理に力を発揮する生徒もいます。
演繹的理解の得意な生徒もいれば、帰納的にものごとを理解する生徒もいます。
良いところを伸ばすことを信条とする私にとって、
どうすれば、子どもたちが本気で勉強と取り組めるか、
真剣にそれぞれの子どもの特性を発見することが、
私の責任といってもよく、それが私にはとてもenjoyableなのです。
先週の日曜日のブログは、日本語と英語の動作主のとらえかた、
その違いを具体的な例文をあげて解説したところで終わりました。
動作主概念→語の並び方の違い→文型の理解→文章の構造理解
という形で私は生徒に英語を教えていきます。
ところが、品詞の役割を教えてもすぐ忘れてしまう、
文型においても、補語や目的語の概念がどうしても理解できない、
という生徒もいます。
日本型教育法であれば、理解できないのは根性がないからだとばかり、
叩いたり、怒鳴ったり、脅かしたりするということになるのでしょうが、
英語圏式は、そのようにはなりません。
徹底してなぜを追求します。まずLDを疑います。
そこで、WISC(知能テスト)をやる。結果、問題ないとなると、
今度は、ADD( 注意欠陥障害)ではないか、
あるいはADHD(注意欠陥・多動性障害)の可能性はどうだとなります。
かくして、日本であれば、熱血指導的対応は、英語圏においては、
本人分析へと突き進んでいくわけです。
そのためにボーディングスクールには、カウンセラーが常駐していますし、
彼らが対応できない場合は、セラピストや精神科医も紹介します。
それで特に問題がない場合は、「君のやる気にかかっている」
ということになり、それ以上、生徒を深追いすることはありません。
生徒にしてみれば、いままでほめられたこともなく、
恒に背中を押されているような状況で、自分が何をどうしたいのかなど、
学習作業の中で考えたこともなく、好きな科目も嫌いな科目もなく、
ただ、受け身に徹していた環境から、逆の環境に入るわけです。
これが留学生にとって日常生活のコペルニクス的変化をもたらします。
英語レッスンから話がかなり多岐にわたってしまいました。
「学習がうまくできない」という状況が生徒に起こった場合の対応を
私の今までの経験からいろいろな可能性を引いてきたので、
このような結果になりました。
英語レッスンの終盤、私の生徒は、
「留学を途中で投げすなんて、考えていませんから、安心してください」
と私に言いました。
分析や根性指導などの方法論の追求もさることながら、
生徒へのおもいの強さと純粋さが、彼らをその気にさせるもっとも
基本的なことのように思います。