○ 留学のための英語力 ― 習得までのプロセス2
<前日のブログに続きます>
新しいことの発見ほど人を感動させるものはないと思います。何をどこでどのようにして発見するかは、人それぞれですが、映画やスポーツなどを見て感激する受身的な共感と、悩んで行き詰っているなかで考え方の転換やふとした思い付きが、自分を変えるほどのパワーを秘める場合もあります。
中等教育時代の留学は子どもたちに新たな自分を発見する機会をたくさん提供します。
留学生の初期の現地生活の中でのつまずきは、次のステップへの準備を整えるために「絶対に」必要なプロセスであると思います。これは私たちの社会がどれだけ発展進歩して、豊かさと便利さを私たちが手に入れることができても、必要不可欠な人の意識ではないかと私は思います。
それほどまでに異文化への適応というのは、個人の人としてのあり方の根本を問われるといえるのではないでしょうか。
私たちは「留学」をかなり質の高い教育機会を得る条件と考えがちですが、じつはその領域に到達するまでには、相当の自分自身の教育インフラが整備されていなければなりません。
一般的には、留学においては「ことば」の習得が唯一無二のもので、これができればあとは本人次第などと考えられていると思いますが、私は「ことば」は道具としてついてくるのであって、それのみを磨くという作業は、現場にいる生徒たちにとってはやっている暇がないというのが、彼らの本音ではないかと思っています。
留学体験者の多くは、勉強以外のものの大切さを強調します。たとえば、サッカー、バスケットボール、野球、ギター、ピアノ、バイオリンなど日本では、大学受験のためには疎んじられても仕方ないものが、留学で復活するといえます。留学生にとっては、これらの特技が実は、彼らにとってかけがえのないコミュニケーションの道具となるのです。留学生たちの現場におけるアイデンティティーはこれらの道具によって維持されることになります。それがどれほど、彼らのやる気を鼓舞し、勇気づけるか、その実感は体験者のみが知るところとなります。
日本では、小学、中学、高校と学年が上がるにつれて、徐々に大学受験を合理的に考えるために生活が組まれていきます。ですから、進学校と呼ばれる高校では、最後の学年はもっぱら大学受験の具体的な準備、すなわち試験で良い点を取るための学習をします。そのために、スポーツ活動は「引退」します。
つづく