○子どもたちの秘められたちから8 発想力
「自らが発想する」ということが、異文化のなかで生きていく基本です。異文化のみならず、教育の基本といってもいいと思います。発想力は必要から生まれてくるもの、そして必要によって育っていくものと私は考えています。必要性、あるいは必然性がなければ、発想力は学習によって培われるものではないと思います。
留学環境は、発想力を生み出し、育てます。そうしないと、やっていけないからです。単一、単調な暗記、あるいはドリルなどの繰り返しではなく、スポーツ、芸術に関心を持ち、社会的なボランティアなどにも参加するという豊富な活動が留学では準備されます。
これらのスケジュールをこなすためには、単にデスクワークだけにとらわれているわけにはいきません。放課後は自分で決めた学習外活動があります。さらに、日々の授業で出される宿題をこなしつつ、土日になれば学校を出て、スポーツや社会活動で遠征するなど当然のように行われます。
すべての課題をこなすために、タイムマネジメントが要求されます。今までの日本での学校環境では、このような状況はあり得なかったことです。
子どもたちお忙しさは留学前も留学後も同じであっても、日本の場合はお母さんという強力な万能マネージャーがいました。学校の宿題、課題のたぐいは、塾や家庭教師などとの学習を考慮しつつ、うまく消化されていきます。スポーツ、芸術面での習いごとも週間スケジュールには、しっかりと組み込まれていますが、発想力を生み出し、育てていくという環境がそこにあるかというと疑問です。なぜならば、主人公が受け身の意識を持たざるを得ないからです。
学習している主人公が「必要」という必然性を認識しないかぎり、発想力は生まれません。したがって、日本の学習環境では、知識は年を追うごとに定量的に増えていっても、考え方の柔軟性は固定されたままで動かないという状況になってしまいます。知識を増やすということは、発想力を引き出すことと違い、一方通行の教育が可能です。そして、どのくらいまで知識の蓄積ができているかということは、定期的に試験をすれば、数値として確認ができます。
一方の発想力というのは、日々の生活のなかで自らが学ぶことであり、試験によって、どれだけ発想力があるかということを確認するのはナンセンスともいえます。
日本の教育は、知識に重点が置かれ、発想力、着想、リーダーシップなどの教育は、掛け声だけで具体性に乏しいのが現況です。しかし、これからの時代を発送してみてください。知識が以前ほど価値がないのは、自明のことがらになっていないでしょうか。さらに、英語が好むと好まざるとにかかわらず、これからの若者にとっては、パソコンを使うのと同じような感覚で「英語を使う」ことが必要です。
留学という環境は、子どもたちにこれからの時代を生きるためのファンダメンタルズの一つである発想力を確実に育てると私は思っています。