子どもたちの秘められたちから2 芯の強さ
<昨日のブログに続きます>
「出会い」の機会を子どもに求めた場合、ネイチャーとしての「自然」にそのチャンスがふんだんにあり、その発展形として10代の留学というのは、究極の多様な出会いを演出するということが昨日のブログの主旨でした。
留学は、異文化との「出会い」です。言葉、社会、習慣、物理的な環境、そこで暮らす人たちの意識など、多様性の宝庫といえます。故に、今までの日本での生活パターンと全く違ったことが求められます。留学生にはそれに対する柔軟なこころの適応性が強く求められます。その適応性を学校の成績的評価のような形で表すことは困難です。また、日本での学術習得の実績が適応性と直接に連結しているわけではありません。
私は留学コンサルティングで必ず保護者の皆さんに単刀直入に尋ねます。
―お子さんは、海外で一人でやっていけると思いますか
・「この子は、大丈夫です」
・「そこが問題。というよりも私(母)が我慢できるかのほうが問題です」
・「意外と、人とうまくやっていける子ですから、心配していません」
いろいろな答えが返ってきます。そして、私の今までの経験から、「挫折して中途で帰国する生徒は100人に1人か2人です」というと、皆さん一様に驚きの表情となります。本来、留学できない子どもなど一人もいないのです。しかし、無条件の留学はあり得ません。学習環境、学校の入学難易度、滞在方法、期間、そして目指す目標などなど、諸条件が加わるので、留学も多様に複雑化していきます。
中等教育機関への留学は、究極のところ子どもたちのこころの「芯」を作っていると私は考えています。異文化という究極の出会いを受け入れ、めげず、言い訳をせず、そこで結果を出すためには、知的な精神活動を支える強いこころの作用が必要です。その高度な環境適応性というソフトウェアーを子どもたちはこころに内蔵しています。そして、そのデータベースに書き込まれる情報が多ければ多いほど、将来に発展しうるプログラムになっていきます。
一般には、留学は言葉さえわかればどうにかなると考えられています。しかし、私はそうは思っていません。言葉よりもこころの芯がしっかりしていないといけません。芯は初めからしっかりできているわけではありません。あくまでも、させるものです。その一つひとつの過程で子どもたちは成長します。