日曜コラム 定年制度
アメリカで暮らすある私の知人は、市役所に勤務しています。
その彼が言うには、「アメリカには定年制度はない」のだそうです。
レイオフなど、日本よりもはるかに雇用状況が厳しいアメリカで
なぜ定年がなくてやっていけるのか、不思議に思いました。
みな、いくつになっても会社を辞めずに、居座るのではないかと
私は単純に勘ぐってしまいます。
仕事柄、ボーディングスクールの現役教師や学校スタッフと
プライベートな会話を持つことがあります。
ボーディングスクールの先生は、基本的には生徒と同様、
毎年の契約更新であること、アドミッションスタッフや
校長先生は、成果が理事会で認められなければ、
期限にかかわりなく、辞めてもらうことになることなど、
教育の世界ではあっても、厳しい雇用制度の中にあるような気がします。
その反面、ボーディングスクールの先生は、私から見ると、
教えることを楽しんでいるように見えます。
学校訪問の時など、「先生につかまる」ことがたびたびあります。
一度話したら止まらない。言っていることは、クラスの詳細にわたる
解説なのですが、とにかく5分くらいは、息継ぎなしの勢いで話します。
いつのまにか、それに慣れてしまいました。
みな、自分の内と外がうまくボーディングスクールという社会と
リンクしているのではないかと思うのです。
一言でいえば、「本音」で生きているということです。
それが、リタイアの時期を自分で決める、あるいは
決められるということにも関係しているのではないかと私は思います。
もちろん、この制度が完璧ではありませんし、それによる弊害もあるでしょう。
しかし、おおよそ英語圏社会というのは、「個人」がとても強い。
それに比べて、日本の社会というのは、組織がとても強い。
そして、社会はその根本に基づいて作られていると思います。
最近、読んだ本に東大の定年時期の延長が取り上げられていました。
60歳でなく、65歳にしようという動きですが、著者は税金の無駄と
その考えを一刀両断にしていました。
一方で、ある老医師の著作には、「ハーバード大学には定年制度はない」と
書かれていました。そして、自らの引き際を自分で決め、
それで何の支障もないことが、日本よりも成熟した社会としていました。
どこかの組織に帰属することで、本音では言いたいことがたくさんあるが、
まあ、「生活にこまらなからよし」とするのであれば、
日本の将来はとても、とても、厳しくなると思います。
すくなくとも、私の父の世代の人たちの組織に対する忠誠は、
豊かな日本を築くためのものであったように思います。
「滅私奉公」は死語となってしまいましたが、定年制度においても、
それが、個のためにのみ、伸ばされるのであれば、
また、そのように個が主張をするのであれば、
組織は個に対して牙をむくような構図になるのではないでしょうか。
定年制度がなくても平然と社会が回っているアメリカのほうが、
潔いように思ってしまいます。