日曜コラム テレビ番組2
<先週の日曜コラムから続きます>
アメリカと日本のテレビ番組、その多くのものは
相互にコンセプトやアイディアが輸入されていると思いますが、
それでも当然のことながら同じものはできません。
アメリカの笑い番組での「笑い」のポイントと
日本のお笑い番組でのそれとは違うと思います。
日本では、いわゆる「空気が読めない人」に対して、
その能天気さを突っ込み、強烈に批判したりして、「バカ」さ加減が
お笑いのネタに十分になり得ます。
それに対して、アメリカの場合、日本のようなボケと突っ込みがないのです。
良識とか、常識の範囲が違うのかもしれません。しかし、
アメリカのほうが、個人という概念が確立されていて、
日本の組織という概念(それが空気の正体かもしれません)を彼らは、
持ちえないのではないかと思います。
さて、先週は銭形平次や水戸黄門という古い話を持ち出しました。
新たに銭形平次がテレビ番組として復活することはないと思います。
長年続いた水戸黄門もついにその幕を下ろしました。
私の母などは、それを残念がっていて、昔の水戸黄門、
鬼平犯科帳などのDVDやビデオを再生して見ているようです。
日本で時代劇がテレビ番組としてレギュラー放映されなくなったように、
アメリカでもいわゆる西部劇(ウエスタン)がなくなりました。
今の時代で、ジョンウェイン、アランラッド、カークダグラスを知る
若者はマニアと呼ばれる人たちでしょう。
日米で、時代劇、西部劇はたとえば、クラシック音楽や
シェークスピアの戯曲のように古典として語り継がれると思いますが、
テレビというマスメディアから消えてしまったことが、
私はすこし寂しく思います。
日本の時代劇とアメリカのウェスタン、そこに共通しているのは、
勧善懲悪的な考え方で、お互いの文化は違っていても、
まじめで強く、正義を愛する頼もしい主人公の活躍は
こころの清涼剤として、私にとっては、とても「効く」ものであった故に、
残念なのだと思います。
日本の時代劇を私は、「学芸会レベル」として先週批判しました。
アメリカ留学から帰国した直後、私はアメリカ的リアリズムと、
平等、自由、そして博愛を根本とするアメリカで2年間暮らした結果、
日本の時代劇の流れと細部の描写に違和感を感じました。
しかし、自国の文化に慣れると、(戻ると)勧善懲悪であるから
平次が強くて当たり前、黄門さまが悪をただし、助さん格さんは
30人くらいの敵を成敗して当然という概念が、
再度こころのなかに醸成されました。
グローバル化の影響で、テレビ番組もこれから変化していくことでしょう。
そのなかで、私は昔ながらの勧善懲悪ものに、
懐かしさを感じている自分を発見します。