高校生の留学体験 - 一人でやること=自立ではない(日置雅子さん)
留学当初の一週間、生活環境の激変ではげしく落ち込んだ雅子(もとこ)さんでした。恥の精神が健在な彼女は、こんな姿をホストファミリーには見せられないと、ひとりガレージで泣いていたそうですが、彼女の落ち込みをすでに感じていたホストマザーは、目ざとく彼女を発見し、ホストファザーとともに、彼女の一週間の出来事を熱心に聞いてくれたそうです。
彼らのアドバイスの核心は、一人ですべてを背負わないこと、わからないことは人に聞くこと、それはけっして恥ずかしいことではないこと、そして、これだけ話せれば英語は十分ではないかというものでした。雅子さんはホストファミリーの自分への思いに感謝感激します。そして改めて泣き出したそうです。
異文化のなかで、やることなすことに自信が持てないという状況は、それを体験した人にしかわからないような重い精神的束縛があります。やろうとする意識が高くても、いざ現実になると、自然と寡黙になってしまい、行動が停止し、最小限の努力しかできず、日々が過ぎるのをそっと待っている消極的な自分の存在に、積極性は沈黙してしまうのです。そのロックが解除されな
いと通常、英語は伸びないものです。
一人でやることが自立ではない - 自分ひとりの力の限界を理解して、人の協力を仰ぐこと、人に感謝すること、一緒に何かに夢中になることの素晴らしさを自然と雅子さんは身につけるに至ります。そして、内向きで消極的生活を積極的なものに変える過程のなかで、雅子さんは、自分の意思を大切にするようになります。また、それを人に伝える勇気を持つようになります。
人の協力が得られる分、宿題に費やす時間が減っていきます。授業での発言ができるようになり、作文の内容も変わります。驚いたことに、彼女は一年以内にテレビが普通に理解できるようになり、雑誌、新聞もスラスラ読めるようになったそうです。
自分の得意、不得意なところを把握し、努力の方向性を上手にコントロールすれば、一年で相当な成果を上げることができるということを実証しているのが雅子さんであると思います。
勉強を黙々とひとりでこなすことが、絶対に「良いこと」、「自主的」のように捉えられ、それを行える環境に無理やり入れられて、毎日せっせと脇目もふらずに一心不乱に机に向って勉強する ― それも一つの方法ではあります。問題は、一人集中型の勉強は、ほとんどの材料が本人に提供されるという受け身の姿勢にあると私は思っています。わからないことを、解明していくというよりも、与えられた範囲と時間のなかで、知識を詰め込む「作業」が日本の中等教育以下では、「学習」と同義語ではないでしょうか。
普通の日本の子どもたちは、学習習慣の変更を大学時代に行うしかありません。おそらく、雅子さんも留学当初、いままでの学習習慣から自立ができていなかったのだと思います。しかし、留学の現実が、彼女の常識の想像を超える世界だったために、とてつもない刺激が彼女という人間そのものを動かすことになったと私は想像しています。
彼女は、留学当初の混沌から、「必死でがんばってきた」といっています。それは単なる受身の学習のことを意味しません。自分で考え、思考錯誤し、実行し、間違えを改め、人の意見を取り入れ、改善するという、正のスパイラル行動の集大成としての「必死の頑張り」であると思います。
留学は雅子さんを人としてひとまわりも、ふたまわりも大きくしたと思います。
(*注:日置雅子さんの手記は成功する留学、小・中・高生の留学2001-2002、111ページに掲載されています。)