ニュージーランド留学 - 科目変更その4
<前日のブログに続きます。>
かなり前のことになりますが、13歳のハローワークという
村上龍の著作がヒットしました。
大学受験というゴールに向けて、勉強イコール学習成果であり、
その成果というのはテストの点数であり、その点数は即、自分の順位であり、
順位によって、入れる大学が決定する。
このプロセスのなかには、自分がやりたいこと、そしてそれと
仕事との関連などは具体的には示されていません。
とにかく、「大学に入ってから考える」のでは遅いと思います。
13歳のハローワークというのは、子どもたちに今の社会の仕事を
教えるというところが受けたのではないかと思います。
むしろ、その読者は子を持つ親であったかもしれません。
余談ですが、私は息子の13歳の誕生日にこの本を贈りました。
息子は「ありがとう」とは言ったものの、読んだ形跡はありません。
彼はすでに仕事をしていますが、もしかすると、彼が親になったとき、
自分の息子にその本を紹介するかもしれません。
社会に出てからが、本当の勉強の場であると私は自らを振り返ってみます。
小さなIT企業に勤める息子は、近頃名古屋に転勤し、
孤軍奮闘しているようですが、そんな時こそ、自分の知識の幅を広げ、
人を尊重して、受け入れるという「学習」の基礎となるような
考え方が必要となるでしょう。
余談を終わります。
ごく当たり前に勉強をして、普通に学校生活をしてきた生徒が、
ニュージーランドに留学して、二年目を迎え、英語も伸びて、
現地での文化習慣も身につき始めたころ、「何を勉強するか」という
課題で先生と意見を異にする ― 実用学と教養学というニュージーランドと
日本の初等、中等教育の在り方の違いに私はとても惹かれています。
日本の大学の教養課程とは何だろうと思います。
レクチャー形式で時には百人を超える学生に先生がマイクをもって講義する。
必要なのだろうかと感じます。どれだけの学生が単位をとるためではなく、
学びたいからレクチャーを聴いているのだろうかと思います。
専門課程になっても、人気のある先生とは、
就職コネクションを持つ人と良く言われます。
学ぶ喜び、知る喜びなど関係なく、中等教育までは、モーレツな競争、
そして大学になると何でも就職のためというのでは、
子どもから大人になる教育の流れのなかで、
本来人を幸せにするために存在する「学問」が、
人々の競争のための手段としてしか機能していないのではないかと
私は疑問に思うのです。
今回のニュージーランド留学生の科目変更は、彼に学ぶこと、働くこと、
そして「人生とは」という大きな課題を与えたと思います。