理想的な教育制度を求めて
私は、今の日本の教育システムは完成の域にあると思っています。
日本の教科書は常にそれぞれの科目で必要な情報を網羅し、
覚える必要があるものを、徹底して覚えさせるというように
編集されていると思います。
そして、大学入試に関しては、学習において努力したその量と
質が多ければ多いほど、難関大学に入れる可能性も高いと思います。
それが多くの教育専門家によって、研究分析されているからこそ、
小さな時から、子どもたちはその対応を
徹底的にトレーニングされるわけです。
テレビで難関高校に入学した子供たちが、その知識量を
争う番組がありますが、出演者である高校生たちは、とても
広範な知識と問題予測能力を持っていてそれも一つの完成された
知識・学習量であると思います。
英語圏の教育現場を見ると、日本のような板書はなく、
問題の取り上げ方と解法に至る過程が日本とは異なるかたちで
あることがわかります。
そんな日本の高校に、ヨーロッパやアジア諸国から留学生がやって来ます。
彼らは、クラス人数の多いことや、1年中同じクラブ活動、
都市部の人の多さと、学校を出た後の生徒たちの行動など、
母国の生徒たちとの違いにドギマギしながらも、次第に日本の学校文化に
自分を同調させてゆきます。
数年前、たしかフィンランドの教育の質がとても高いということで、
評判になり、テレビで「その秘密は」といった特番が何度かあったように、
記憶していますが、フィンランドの教育のメーンテーマは
自ら考え、自ら行うという受け身でない教育であったように思います。
フィンランドだけでなくて、そのような教育は欧米人の特徴であり、
人口も日本の半分以下で、国勢も成熟期を過ぎてはいるものの、
国の方針ぶれていないから、子どもたちの総合的学力を統一して
良い結果が出るのではないでしょうか。
教育というのは独自でその価値が評価されるものではないと
思います。良い教育が行われ、その教育を受けた人々が、
よい社会を作ることが求められ、その手段として最重要なのが、
教育であるわけです。
私は教育が、子どもたちに与えられ、彼らが成人した時には、
社会がさらに先に進んでいるとう現象が、さらにこれから
加速すると思います。私の仮説の行き着くところは、
相対でない絶対な自分を持たないと、社会の変化には、
対応ができないのではないかということです。
完璧な教育システムとは、社会のグローバル化に伴い、単一の国、
あるいは地域で考えるのではなく、地球全体で考えることができれば、
良いのではないかと思います。
修学旅行、夏季研修で海外に出かける機会を設ける学校が増えてきました。
それらの発展延長先に教育交流があり、そのバリエーションが増えることで、
日本の教育界、そして世界の教育界がより拡大する-中等教育はそのように
ありたいと私は思います。