リーダーシップ教育について
リーダーシップ教育は世界のボーディングスクールが力を入れる生徒たちの社会教育における大変重要な項目です。
彼らの目指すリーダーシップ教育は、強い意志の力と、明晰な頭脳、強靭な体力でぐいぐいと人を引っ張って行く、そんなリーダーを養成するというイメージとは違うものです。もちろん、映画に見られる、加山雄三の若大将的(古い例ですみません)なたくましいリーダーも一つの形であることは間違えありません。
ボーディングスクールが求めるリーダーシップ教育とは、多様化したグローバル社会のなかで、専門化、特化するまえの人と接する中での基本を学ばせるというものです。
その概念として、感謝、共感、尊敬、協調などがキーワードとして取り上げられています。すなわち、自らの発信の前に、相手のことを理解し、その心を分かち合い、目的を明確に共有して、一緒に努力するということが基本だということです。
10代なかばの男女がリーダーシップを学ぶということは、以前にもこの例を挙げましたが、「ドアに結んであるひもを押してドアを開けること」ととあるボーディングスクールの先生が生徒に教えたそうです。力、知識量、強い意志力がいくらあったとしても、ひもを押してはドアを開けることはできません。むしろ、物理的、精神的な力量の問題ではなく、ドアみずからが、開こうとするのを後押しするのがリーダーシップの要点だということを、先生は教えようとしているのだと思います。
「それは理想論」、であっても人を動かすということは、それほどまでに、自らと人との関係性が重要であるということであれば、若い生命はその理想を柔軟に受け止められはしないでしょうか。
私はそれを信じます。なぜならば、10代半ばの子どもたちは誰に教わらなくても、自然に半年もすれば異文化に適応します。その適応力とこころの柔軟性は、ダーウィンの言う適者生存そのものではないでしょうか。体が大きくても、小さくても、スポーツが得意であっても人前で話せても、話せなくても、積極的であっても、消極的であっても、彼らは立派にゼロから立ち上がるのです。
彼らは無意識に適応します。最初から明確な目的があって、それを実行するプランを自発的に立てられるわけではありません。かかる彼らの行動が自明の事柄であるのか、ないのか・・・。いずれであったとしても、私は、一人ひとりをこころから誉めてあげたいと思います。なぜならば、「できるだろうか」と一番疑問に思っていたのか、子どもたちではなく、親そのものであることが多いからです。
それを達成したのであれば、子どもたちには、最大の称賛を与えるのは、親の義務でもあると思います。そして、子どもたちは、無意識に誉めてもらいたいと思っているのではないでしょうか。
もし、受験の最終的な結果のみに称賛が与えられるのであれば、子どもたちの精神はとても疲弊してしまいます。もし、試験の結果のみで子どもたちが評価されるのであれば、学問をするという崇高な人々の営みは、子どもたちは、その喜びも意義も楽しみも感じなくなってしまうでしょう。
そうなってから、リーダーシップは学べるものではありません。