留学物語-父は東大ぼくはニュージーランドその13 ぼくの夢
(その12 7月9日掲載)
ニュージーランドの学校がいかにユニークであることは枚挙にいとまがない。アメリカの学校も小学生の時に経験したけど、高校生になってニュージーランドの学校に通い、日本の学校といかに考え方を異にするか、それがぼくにとっては鮮烈な衝撃だった。
ぼくの将来の夢はホテルマンだった。引越しや旅行が多かった幼少期に、家族でホテルに泊まることが多かった自分にとって、ホテルマンは身近で、なおかつ輝いて見える職業だった。初めてぼくたちを迎えるホテルマンの笑顔と態度。幼いぼくには、彼らがスーパーマンのように思えた。彼らは、ぼくたちの希望を即座に、にこやかに、かなえてくれた。
ニュージーランドに留学してもその気持ちは消えていなかった。親もそんなぼくの気持ちを知ってか、将来のことについては詮索や質問など一切なかった。
ホテルといえばスイスだと思っていた。スイスの専門学校で勉強して、ホテルマンになることを夢見たぼくは、最後の学年が始まってからフランス語を履修したいと留学生担当の先生に無理を言った。日本であれば、「いまからフランス語?そんなことは大学に入ってから考えろ」で終わってしまうだろうが、なんと普段はあまり留学生に親身でなく忘れっぽい初老の先生は、ぼくのためにその可能性を考えてくれた。隣の女子高でフランス語の初級クラスがあるから通っても良いといってくれたが、他の授業の合間を縫って通いきれない。ぼくの学校のESOL担当先生は6ヶ国語に堪能だったが、ぼく自身のみのために授業は行われない。結局、ぼくはフランス語の通信教育をとった。半年ほどの勉強だったが、もしぼくがスイスに卒業後、直行していたらスムーズな走り出しの手助けになっていたと思う。
ホテルマンの夢を持っていたぼくはFood Technology(FT)というクラスを最終学年で履修した。この科目は日本であれば料理専門学校での学習内容に匹敵すると思う。FTではなんと衛生保健士の資格まで取れる。ぼくの高校は、いわゆる普通科の高校だけど、FTクラスのための厨房やレストラン施設が校舎に完備してあり、校長が誇らしげにヘレンクラーク首相をここで食事を含む接待をしたと言っていた。ソムリエ、料理人、そしてマネージャーのためのトレーニングが出来るようになっている。夢に向かって走っていることを実感しながら学ぶことができたこのクラスはぼくにとって希望だった。毎日が楽しかった。真剣に取り組んだ。今思い返すと、漠然とした夢ではなく、真剣に自分の将来について考え始めたのはこの頃が初めてだったのではないかと思う。
Designのクラスでは学校などのロゴのデザインを実際に作った。リサーチを含めロゴの概念を学習したあと、それぞれの生徒が実際に街に出る課外実習も組み込まれていた。そこで、企業などのコンセプトをデザインする具体的な手順を学んだ。要するに社会に出てすぐに使える訓練を受けたわけだ。
ニュージーランドの高校では科目を自由に選択できる。しかし、それは自分の目標がないと意味を持たないことを示している。履修相談にのってくれる担当の教師もいるのだが、ビジョンを持たずに好きな科目ばかりを選択すると最終的には行き詰まってしまうこともある。自由には責任が伴うことは、ニュージーランドの生徒たちは当たり前だった。しかし、小学校から、高校まで、自分の選択責任のない日本からの留学1年生はとにかく戸惑うのだ。ニュージーランドの高校時代の科目の選択は、日本での大学進学のための理科系、文科系選択とは全く違う。日本の普通科高校ではおまけのような芸術科目もニュージーランドではデザイン、CG、写真、陶芸など趣味を超えたリアルな科目だと思う。将来自分がどうしたいかという選択と社会に出て自力で食べてゆくという最も基本的な社会の仕組みの学習をニュージーランドの高校生たちは当たり前に受け止めていた。
彼らはよい大学に入学するために勉強はしない。高校生になったら、自分がなりたい職業をイメージして、そのために勉強する。のんびりした人の多いニュージーランドだけど、マーティン・ルターが言った「職業に貴賎なし」を思い出した。(つづく)