苦労という体験
留学をひとことでいえば、「苦労の体験」であると私は思います。
おおよそ中等、高等教育に携わる人たちの見解は、どれもが苦労をともなう
努力の必要性を示唆しています。それは、
私が見てきた実際の子どもたちの留学先での現実と一致しています。
そして、私は自分の経験から知りえた知識を、教育という体系に置き換えて、
選択肢のひとつとして、なるべく多くの人に知ってもらうために、
ブログを書いています。
苦労のない人生はあり得ず、またそれが大きければ大きいほど、
それを乗り越える自分も成長します。
そして、苦労の結果得られる「果実」を多くの学者が「幸福」と定義しています。
もちろん、学者の先生のみならず、事業家、政治家、医師など、
人を率先して幸福に導く人たちも同様に、人生において苦労を必然と考え、
それでも夢や希望に向かってゆける人になってほしいという主旨のことを、
さまざまなアングルから語っています。
「苦労」というのは、自分との戦いであって、
人や社会に起因し敵対することではないと思います。
むしろ、人や社会は「自分」を写している鏡なのではないかと私は思います。
因果で言えば、ものの見方、すなわち価値観のありかたによって、
苦労のあり方が180度変わるのだと思います。
たとえば、留学して英語が話せず、友達もできないし、
先生も不親切という状況があったとします。
留学生の保護とお世話が徹底していない、受け入れ学校が悪いのか、
積極的でない本人が悪いのか、このジャッジを誤ると、
10代の子どもたちの将来にとても大きな影響を与えざるを得ないと思うのです。
私はコンサルタントですから問題が起こると、双方の意見を聞き解決を図ります。
私の望みは、私がお世話している生徒が、
問題を自分で解決できる留学生になることです。
そのためには、留学している子どもたちがたくさんの「苦労」を
とおりぬけなければなりません。
もちろん、学生の立場にある人の苦労は「自分との戦い」である以上、
場所と時間を問わず発生します。
勉強をしなければいけない苦労、学校にいかなければならない苦労、
塾、お稽古など、留学生とて日本の生徒たちとまったく同じ悩みを持ちます。
さらに、言葉と異文化という決定的なハンディを負わなければいけません。
なぜ、そのような「苦労」に10代の若い子どもたちが耐えうるのでしょう。
それは、彼らにとって見るもの聞くものが「苦労」の対象にならないからです。
もちろん、彼らにその認識はありません。無我夢中だからです。
だから迷います。そんなときに、家族のサポートが必要であることは、
言うまでもなく、その基本は子どもたちのこころに元気を与えることです。
それは、夢とか希望であると思います。
どんな苦労と喜びを演出し、認識させ、乗り越えさせるか、10代の留学は
そのストラテジー(作戦)を親と一緒に考えられるからたいへんおもしろく、
子どもたちと恒に接していられるから、考えさせられます。
考えることに終わりはありません。
「できれば若いときに苦労を買わせたい」、私は心底そのように思っています。