ニュージーランド留学-日本の教育事情2
中等教育(中学・高校)時での留学は現在においても一般化しているものではありません。中学時代に日本の学校をやめて留学をするとなると、義務教育の問題、家族の絆の問題、本人の精神的未成熟などが問題となり、相当数の留学希望者や家族が周囲や学校の常識の壁に突き当たります。
理念先行がゆえに、「異文化体験賛成、しかし時期尚早」ということになります。高校生までは受験に差し支えない程度に短期研修などで異文化を体験し、しっかり勉強して大学時代に本格的な異文化を経験する活動を行なうという話になります。高度成長からバブル時代にかけての学歴、出身校偏重傾向が今でも、あるいは今だからこそ中等教育においては明確なのかも知れません。
グローバル化で必要とされるのは、順応性、適応性、自主性など、目標を設定し、問題を自ら解決するという力ですが、それが殆ど大学に先送りされていると私は思っています。だから、大学受験に対する備えが幾重にも厚く子どもに圧しかかるのです。
高校まで、学ぶべきことを学び、大学で雄飛するという考え方に私は賛成できません。なぜ学ぶのかという納得が「学ぶ側」にないからです。小さいときから暗記や知識吸収だけの訓練をされ続ければ、おのずと子どもたちの自然への好奇心や、興味といったことはしぼんでゆきます。そのような環境のなかで、ようやく大学まで到達した時点で、今度は異文化経験が必要、語学力も必須などと言われても、言われる側としても納得がゆきません。ゆえに、五月病、燃え尽き症候群、日本の大学生は勉強しないといったことが真剣にとりざたされるのだと思います。
本来教育とは、自己発見→自己実現→社会貢献というかたちで進んでゆくと思います。そのなかで、必要な知識をつけ、問題解決の方法を学んでゆくことが、成長ということだと思います。「自分とは」という問いに徹底して納得の行く回答が出ない限り、なぜ知識を身につけることが必要かということに対しても納得が行かないのが学ぶ側の論理でもあると思います。
「自分とは」に対する解答は決して難しいものではありません。誰でもそれを真剣に求めさえすれば、おのずと明らかになる。しかし、それを求めなければ、「自分とは」という問いに誰も応えてくれないばかりか、生活そのものが受身にならざるを得なくなります。
個人が個人として尊重される。その特性が発揮できる場所を探す。教育の原点に立ち返り、教えるだけでなく、育むということにも真剣に取り組んでみる時に、私は日本を含めた教育の機会を世界に求めることを中等教育の時代だからこそ提案したいと思っています。