これからの日本の教育 - 先生の異文化体験
私は英語を教えることに大変関心があります。
留学のコンサルティングという自分のキャリアのなかで「今は昔」と言えるほど
前になるのですが、「英語教科教育法をアメリカで学ぼう」というテーマで
シアトルにあるベルビュー・コミュミティー・カレッジで英語の先生のための研修を数年間行なったことがあります。研修の期間は2週間でした。
そこに参加した現役の英語の先生方はみな英語教育に熱心でした。
熱心だからこそ、アメリカ人に英語の教え方を学ぼうとしたわけです。
トータル・フィジカル・レスポンス(簡単に言えばボディーランゲージ)、
サイレントウェイ(言葉に頼らず相手を引き出す)、
コミュニカティブウェイ(この方法論は忘れました)など、短期間ですが、
私も英語教授法が好きな一人として、勉強になりました。
ボーイング社を見学して帰途、ファーストフードの店で昼食を取ったのですが、
ある先生が飲み物の注文の際、店員がサイズを聞かずにいきなり、
Do you wanna jumbo Coke?と言い、先生はYesと答えました。
「先生、ジャンボコークはバケツのような大きさですよ」と私が言うと、
「いいんです、いいんですそれで」と先生は承知の上を強調している様子。
実際のジャンボコーク、バケツは大げさにしても、1.5リットルはありました。
先生は、驚きを飲み込むようにしてジャンボコークを受け取りました。
「だから言ったのに」と私は言わずに、こころのなかで思いました。
私が先生だったら、どうしただろうと思います。
今であれば当然、人からのアドバイスを聞いて、Noと言うと思います。
「解らないこと」が恥ずかしくはありません。
しかし、私が学生からいきなり先生として社会人となり、
クラスと職員室という社会で生きていたら、ジャンボコークをこっそり捨てでも、
自分の教師としてのめんつを大切にしたかもしれません。
異文化体験とは実は自分の既成概念との戦いではないかと思います。
年齢や立場に関係なく、いままで気づかなかった、あるいは良いと思っていた
日常が崩壊することを余議なくされることがたくさんあり得るのだと思います。
初等・中等教育の現場というのは、学術習得に関しては基礎を学ぶところであり、
実社会からも離れていることを勘案すれば、ある程度特殊といえるかもしれません。
しかし、特殊だからという理由で社会から遊離してしまうとすれば、
その環境ははたして子どもたちにとってよいのかどうか・・・。
私はひとつの極めて小さな事象を拡大解釈しているのかも知れません。
しかし、専門性というアプリケーションが直接社会に結び付かない
教育の現場に従事される人達にとっても、自分と自分が属する社会との
葛藤はたくさんあるのではないかと思います。
だから、非日常を生徒とともに共有するという精神は
とても大切ではないのでしょうか。