これからの日本の教育 - 4教育の現場で
留学に親が参加するということを前日のブログで述べました。
物理的なことではなく、親子のコミュニケーションということを
テーマに私はその関係性の重要さを考えています。
それでは、同じ大人である先生はどのように生徒の異文化体験に
参加するのかという視点で私は思い巡らせます。
そこに求められるのは、オープンな意識だと私は確信しています。
先生というアカデミックリーダーの背負う宿命として、
正解を生徒に与えること、正解への道筋を説明することと今まで、
日本では考えられてきたと思います。
教える側と教えられる側、与える側と受け取る側、知識を有している側と
未知の側、日本の初等、中等教育においては、先生が担っている精神の重さは
計り知れないと私は考えています。
しかし、日本の高度成長が止まって、社会・経済を支えていた価値観が
崩壊しだすと、その余波が10代の人たちにも影響を与え始めました。
彼らの既成価値観に対する「なぜ」に多くの大人が即答できなく、
精神のエネルギーのやり場に困っている若者に翻弄されました。
「範」が多様化されたことを敏感に感じ取る若者に強制は通じませんでした。
いまだなお先生と生徒が対面する教育においては、
この範は形骸化するどころか、教える側の根底を支えている精神であると
私は考えています。教育の現場はそのような強い磁場を持っていると思います。
それはほとんど無意識の世界です。とても古いアプリケーションが100年以上、
バージョンアップされずに使われているように思えます。
価値観の変化を競争の原理に置換し、教育が知識の蓄積にいよいよ
エスカレートしていると私には思えてなりません。
先生方の専門性が知識至上になればなるほど、ルーティーンワークのなかで
知識の再生産が行なわれ、「なぜ」は不要となります。
やわらかい頭、思考の柔軟性などは、一定の「枠」のなかのことであり、
おおよそ指導的想定の範囲でのやわらかさであり、柔軟性です。
のびのび育てるとか、たくましく育てるといったいかにも子ども中心的
教育の裏面に、明確にセッティングされているのは、これだけやれば、
安定した将来が獲得できるということであり、普遍のこころざしとか、
価値観という古来私たちが大切にしてきた精神は二の次、三の次に
優先順位が下がっているのではないでしょうか。
私はとても子どもたちに対して「(模)範」にはなれません。
英語にかかわり、教育を考える私は子どもたちよりほんの少しだけ「英語」を
知っているだけの人間です。「学び」に対しては、私が知りえた知識を
彼らとシェアーし、「こうすれば簡単にできるよ」という自らの体験的
考えを伝えるにすぎません。
それよりもむしろ「教育」とは生き方、すなわち人と人との関係性や価値観を
受けて側と共有できることに真の喜びがあると私は信じています。
つづく