プリミティブな発想-使えない英語
勉強は何かをやろうとするときに、学んだことのある一部分が役立つのであって、
勉強そのものが即実生活で役立つというわけではないと思います。
しかし、英語に関してだけは例外ではないかと私は考えます。
英語はコミュニケーションのための道具ですから、使われてこそ役に立つのですが、
いつしか日本では道具ではなくて、競争のための「手段」に
変わっているように思えます。
手段とは、受験のことですが、ではそこで試される生徒の能力とは何でしょうか。
現時点では、読む力が極めて重要で、そこに重点が置かれていると思います。
そして、読解のために必要な文法知識が次にくると思います。
では、書く力はどうかというと、読む力にくらべるとかなり低くなります。
手段として使われている間は、役に立ちそうになく、それが積もり積もって、
6年間英語を学習しても、さらに4年間大学で英語を学んだとしても、
使えないという英語は時間と労力の浪費だと思います。
道具ではないので、覚える、正解を考え出すことが中心となり、
結局、その場限りの知識として忘れ去られてしまうことが大変残念です。
英語が使えないということは、英語習得の目標が学ぶ側に
伝わらないからではないでしょうか。
知っているか、いないかが試されるだけで、どのように使うかがあまり重要でない。
本来、英語は日本語に比べて、使い方のルールがはっきりしていると思います。
動作主を中心に考える点など、いったんその仕組みを理解すれば、
大変わかりやすい言語であり、いまや世界共通語として、非常に便利に
使われています。
関係代名詞、不定詞、現在完了、仮定法、分詞構文など、答えのための
暗記でなく、それぞれの意味する日本語との違いを
子どもたちに納得するまで説明すれば、少なくとも彼らが海外に行って、
生活の場面ではある程度まで、「使える」英語を習得できると思うのです。
読解中心という考え方は、明治以降の海外文化受入れの日本の歴史です。
それが、グローバル時代の現在までも継承されているのではないでしょうか。
この連鎖をどこかで断ち切る必要があると思います。
おそらく、それを必然として実行できるのは、新たな世代です。
その人たちは現実→検証→決断→実行という過程を勇気を持って
断行しなければなりません。
そのために私は10代での体験が重要であると思います。
話す、聞くという分野を読む書くと区別して学ぶ必要もあると思います。
テストの内容も知っているかいないかでなくて、考えていることを、
表現できるか否か、相手の言っていることがわからないときは、
どうしたら良いのかなど、自らの「意思」が問われることになると思います。
時間がかかるというよりも、システムを変えることによる、
既得のルールを変化させる、すなわち人の意識を変えて行かなければ、
この問題は解決を見ないと思います。
いったんツールとして英語を習得してしまった人は、
英語教育の分野に残る人はそれほど多くはないと思いますが、
それでも、可能性は絶対にあると私は信じて、この仕事を継続します。