プリミティブな発想-言葉にとらわれない
生徒と2人きりで学校訪問すると彼らの行動や心境が
たとえ一週間ほどでも変化するのがわかります。
子どもたちの変化をなるべく詳しく正確に親に報告したいと思っています。
そのベースとなるのがプリミティブな発想です。
確かに成人と比較して、10代半ばの子どもたちの
英語習得度は格段に高いと言えると思います。
留学して1年あまりでなぜ子どもたちは
英語が使えるようになるのでしょうか。
これから留学する生徒に英語を教えていて気づいたのですが、
彼らが英語を話そうとするとき日本語の言葉を
英語に置き換えようとします。すなわち、頭のなかで翻訳作業を行ないます。
だから、いつになっても英語が出てこない。
出るわけがないのです。単語が訳せないのですから。
たとえば、「お世話になりました」ということを英語にする場合、
日本の教育現場にいる子どもたちは、
無意識に「正解」を探します。
そして、世話という単語をしらないことに落胆し、
「あー、世話って英語でなんて言うんですか」ときます。
世話をするというのはtake careですが、「お世話になりました」が
take careと結びつかないことはある程度英語を
知っている生徒ならわかります。
だから、「うーん・・・」となり回答が作れません。
私は生活のための英語を彼らに教えるとき、
「言葉を置き換えるな、行動をイメージしろ」と言います。
そして、「正解」は見つけるものではなく、
自分で「作り出す」ものだと教えます。
「お世話になりました」ということは行動的にはありがとうを
示すことですから、Thank youと相手の目を見て満面の笑みで言えばいい、
私はそのように発想します。
問題は満面の笑みが本音で表現できるか、
感謝できるか、自分の正直な気持ちをそのまま相手に
臆せずに全身で表現できるかどうかであると思います。
自己表現そのものがプリミティブな発想といえないでしょうか。
プリミティブとは「生きるために」ということです。
精神の孤島で生きるために、相手の言語を学ぶわけですが、
幸いなことに、私たちは白紙の状態で英語を考えるのではなく、
すでにそのベースは教えられているわけです。
問題は教えらる目的が話せることではなく、
知っているかいないかなどの役に立たない知識と
多くの子どもたちに英語学習がみなされているところです。
大切なのは英語を知っているかどうかではありません。
目的に応じて、「使えるかどうか」であり、
「これからは英語くらい話せなければだめだ」とほとんどの人が
認識しています。しかし、その源流である現場の子どもたちが、
驚いたことに日常に絶対必要なやり取りすら、
英語に置き換えることが難しいというのが現状です。
つづく