先人たちの教育への意思
今年の6月、第一週のブログで私はバーンスタインがその晩年、
教育にかける情熱と意思について述べました。
かれにとってクラシック音楽は、作者との時間を超えたコミュニケーションの
手段であり、その洞察は親しみ深く、人間味にあふれていると思います。
弾き手として、指揮者としての彼はそれゆえに、人々に感動を
与え、それを共感できるのだと思います。
彼がハーバード大学で行なった小さなセミナーは、
音楽素人の私でも、大変魅力的でわかりやすく、
聴衆を納得させるベートーベンのストーリーが彼によって、
語られていました。
バーンスタインは自らのそれまでの知識、経験を教育に託しました。
そして、小さな子どもたちに音楽を教える彼の素顔は、
「幸せそのものだ」と私は思いました。
音楽というツールを通じて、彼は最後まで人とコミュニケーションを取りたい、
そのように望んでいたと思います。
近年、独自の古代史観を展開し、法隆寺の謎に独自の視点で挑戦し、
多くの人の支持を得た哲学者、梅原猛さんも一線を退いてもなお
小学校の現場で子どもたちに歴史を教えている写真がその著書にありましたが、
とてもとても嬉しそうでお元気な顔をしておられました。
バーンスタインも梅原さんも共に教育を愛し教育に未来を託している、
だから現場にいる子どもたちと歳の差に関係なく
かかわっていたいのだと思います。
梅原さんはそのたくさんの著書の中で繰り返して教育の
すすむべき方向を示しています。
良い人生→良い会社→良い大学→良い高校→良い中学校→良い小学校→
良い幼稚園と続く受験システムに子どもたちの精神が疲弊し、
独創性、創造力、個性が後回しされ、やっと入った良い大学では
学習は後回しという彼の批評は「当たっている」と私は素直に思います。
バーンスタインの晩年の「教育論」の実践は私の知る限りでは、
中等教育までの子どもたちが対象でした。
彼の偉業を知らない子どもたちもたくさんいたと思います。
しかし、偉大なるバーンスタインにとっては、音楽が好きであれば、
どのような子どもであっても教育の対象になったと私は確信します。
おそらく、そのほうがカーネギーホールで満席の聴衆から
拍手喝采を受けるよりも、晩年の彼は満たされていたのでないでしょうか。
自己の芸術を教育まで高めることができ、
晩年に小さな子どもたちとわけへだてなくコミュニケーションできる
バーンスタインは偉大であると思います。
意思疎通ができる教育ほど素晴らしいものはないと私は思います。
私も現場を大事にしたいと思います。
若者たちが素直に苦労できるその「現場」を日本を含めた世界で探す、
やはり教育コンサルタントという仕事に終わりはありません。