日米、学びの機会について
日本の受験は年に一度、その試験日を逃すと
次の年までその機会を待たなければいけません。
その受験のやり方は明治以来変わっていません。
試験至上主義、その結果がすべてという歴史は
これからも変わりそうにありません。
一方、アメリカの受験では出願期間は、9月の新学期から
年明けの1月末までの5か月間が標準です。
日本であれば国立にあたるアメリカの州立大学、
その受験システムは私立と共有されていて、オンラインによる
共通願書システムですから、日本のような浪人はアメリカにはありません。
大学でやりたいことがあるから進学する。
大学の名前よりも先に自分がやりたいことを優先する。
アメリカには、私立大学だけではなく、公立大学は地元に根差ざした
コミュニティーカレッジと呼ばれる2年制の一般教養学習を
中心とした地域の人たちのための大学があります。
コミュニティーカレッジは誰でも学べます。
入学難易度はなく、地域の人々のために開放された高等教育機関です。
そこには、教えることが好きな高等教育に特化したプロフェッショナル教師も
沢山いて、ボランティア的に地域住民に開かれた成人のための
学びの機会を提供しています。
日本には学ぶ機会の多様性よりも、どこで何を学んだかという
筋道が尊重されているように思います。
日米、高等教育では、その機会の開放性と多様性は、
アメリカのほうが優っているように思います。
そろそろ日本でも進学する立場の人がその先を選択するという
意識を持ってもいいのではないでしょうか。
経済、法律といった一般的な教養はどこでも学ぶことができます。
その基本を終えてからが重要なのです。
学ぶ場所に期待しても果たしてその結果は社会で通用するでしょうか。
仮に日本の社会で通用するとしても、世界ではどうでしょうか。
グローバル社会は日本の教養尺度、学習尺度を
そのまま受け入れてくれるでしょうか。
もちろんその解答はまだ明確ではありません。
しかしながら、巷間の英語ブームを電車やマスコミで見聞きすると、
読み書きよりもコミュニケーション、それもごくごく当たり前の基本的な
やり取りが英語で問題にされているのを見るにつけ、
中等教育時代の英語学習はどうなっているのだろうかと
感じてしまいます。
受験生の皆さんの選択肢がアメリカのように日本でも
広がっていくことを私は切に希望します。