英語圏と日本の文化背景-叱ること3
感情的にならずに、叱る理由はあくまでも明確にと前日のブログで結びましたが、
「正確に叱り、相手を伸ばすこと」はとても難しいと私は思っています。
父親、母親のそれぞれの立場で叱るという行いを考えてみると、
日々子どもと接しているお母さんのほうが、
明らかに叱ることに圧倒的に近いところにいると思います。
お母さんは、お父さんと比較して、子どもと日々接しているという
物理的なアドバンテージばかりではなく、わが子を産み育てたという感情と
意識は、お父さんには理解しようとしても極めて難しいと思います。
本題の学校において「叱る」というテーマに戻ります。
英語圏の教育はプルアップ方式(よいところを伸ばす)、
日本はプルダウン方式(均質化、平均化)と言われていますが、
それを叱るという観点から見ると、英語圏はほめる教育であり、
日本は叱る教育であると思います。
極端な表現かもしれませんが、日本に比べ英語圏の国々は個人権限が強い分、
組織を重んじること、調和や協調を重んじること、
相手を気遣うことなどが驚くほどに希薄だと思います。
日本からの留学生は英語圏の人たちのいい加減さにほぼ例外なく大変驚きます。
たとえば、約束しておいて平気で忘れる。
言葉をそのとおりに受け取り、気遣いのフォローが少ない。
都合の良い発言をするが、行動が伴わない。
概して精神的にも物理的にも大雑把であり、
日本のようなきめの細かさがありません。
これがほめる教育のよいところでもあり、悪いところでもあると思います。
このいい加減なところを受け入れ、対応する力を身につけるあたりから、
英語力も伸びてきて、徐々に彼らの文化に溶け込めるようになります。
要するに、黙っていたら損をする。忘れそうなら、相手に念をおし、
言っていることとやっていることが違っていたら、その違いを指摘する
そのような生活の知恵を学ぶわけです。
日本は組織を重んじ、その調和や協調のためには、自分の意識を犠牲にし、
隠すことが当前と思われていますから、意識や感情の突出は、
よろしくないということになります。その代わりに、
組織に属している人は組織によって守られる。
ゆえに、組織に迷惑をかける行為や考え方は結局のところ「叱られる」ことに
なると思います。
日本が経済的に豊かになり、情報革命により個人が重んじられるようになり、
叱るということが社会から退化しつつあります。
それを嘆いても、世の中は逆戻りできないと思います。
「叱る」ことなない社会などはありえないと思いますが、
それが当たり前である社会はとうの昔になくなってしまいました。
基本に「叱る」でなく、こころおきなくほめることをおいたほうが、
教育はうまくゆくと私は思っています。
ほめて相手のこころに素直に入ることで、
こころから叱るという精神的の土台が築かれるからです。