基礎教育について6
月曜日から続けてきた基礎教育ブログですが、私のいいたいことは、
教育のベースとなるのは、知識ではなく「意識」であるということです。
ご承知のように、世界の偉大な人物は例外なく、好奇心にあふれていて、
いろいろなことがらに「なぜ」を連発して、その答えを追究しました。
それが創造力、独創性、発想力と実行力の源ではないでしょうか。
好奇心やなぜを妥協せずに追求する精神作用は、
人間として誰にでも備わっている「こころの力」であると思います。
その精神の働きがすなおに発揮できて、折れることなく
思春期を過ぎ、さらに自助努力と困難に打ち勝つ精神とがうまく作用するときに
人をして偉大ならしめることがらを実行できるのだと思います。
私は日々、10代の子どもたちと接しています。
英語圏の学校に連絡を取り入学の交渉や事務に関するやり取りもします。
日本の留学生のお母さんと連絡を取り、本人の状況を聞き、
しかるべき対応が必要な時はそれを実行します。
私は自分のやっていることが、子どもたちの将来に役に立てば良いと思います。
すこしでも彼らの持っている潜在能力を引き出して、彼らが自らそれに気づく
その作業ないし作用の応援や手伝いができればと願っています。
異文化なかで日々を送っている留学生たちには「なぜ」とか「おもしろい」などと
言っていられないのが現実でしょう。
彼らは偉業を成すために留学したのではないでしょう。
現実は、「親の(つよい)すすめ」、「日本の学校が合わない」、
「海外で英語を学びたい」、「日本を飛び出して広い世界を見てみたい」など、
それぞれの理由があり、結果として「偉業」をなす可能性があるわけです。
なぜの方向性は一人ひとり決して同じではありません。
一人ひとりの「なぜ」にたいする個性を見出し育てることができたら、
どれほど素晴らしいことでしょう。
それを可能にする手段として、「留学」はもっともっと、
社会に認識されるべきであると私は切に思っています。
人々の生活が多様化する私たちの社会においては、
情報の質が問われなければなりません。
特に国際化、グローバル化に関連した「教育情報」には
注意が必要であると思います。
余談ですが、IBプログラムは世界スタンダードであり、自立思考、
論理思考、プレゼン能力、議論する力などが身に着くから導入する。
ごもっともですが、誰がそれを教え、クラスがどのように運営され、
システムとして「運用」されるためにどれだけの費用がかかるかを
考えると、「IB」は日本の学校でやってゆけるのかと思います。
私は教育というのは極めてシンプルなものであると思っています。
本来、学ぶということは決して難しくはないと思います。
しかし、オールマイティというのが難しい。
数学も、英語も、国語も、理科も、
社会も全部できるというのが、難しい。
でもやらなければいけないからとつまらない勉強をさせられるから、
子どもたちもだんだんいやになってくる。
芸術科目が好きでも、能力があっても、
「芸術では食ってゆけない」という大人の論理でさっさと見切りを
つけられてしまうとすれば、子どもの本音は「夢も希望もない」とは
ならないでしょうか。
子どもたちは「初めからそれで食ってゆくなんて言ってないじゃない」と
言いそうな気がします。
そうですね。
でも「あんた、現実は『厳しい』のよ。とにかく勉強しなきゃ勝てないんだから」
という会話が聞こえてきそうです。
どちらか一方が良く他方が悪いのではないと思います。
むしろ、私たちは小さいころから良いか悪いか、×か○かの教育に慣らされています。
でも、人生ほとんどが×でも○でもない。
お互いが「そうゆう考え方もあるね」と認め合って、フェアーに「議論」が
できれば、×のものが○になり、○のものが×になる
こともたくさんあるのです。
私の基礎教育という概念は、知識ではありません。
×も○も自分で考案し、考え抜き、結果を出せるそんな力です。
またそれを生み出す環境や人物です。