中学・高校留学-無人島での15歳6:慢心の自覚
子どもたちの生きる力を「無人島の比喩」を使って1週間にわたって考えてきました。
最後の「慢心の自覚」というテーマは10代の心身の成長著しい彼らの到達する
一つのピークであると私は思っています。
慢心とは言葉を変えて言えば傲岸、すなわち自己中心の世界ということです。
異文化というのは徹底してこの考え方を崩壊させる力を持っていると思います。
自分の自由にならない世界なのです。
言葉も、生活も、食べ物も、人間関係もみな今まで
自分の経験認識した世界ではとても測りきれません。
グローバルな時代ですから、あらかじめ生活様式や英語ということへの
素養と準備はある程度はできます。
食べるものに至っても、日本では洋食は日常なので問題ありません。
それでもなお、「現場」はイメージの世界とは全く異なります。
「こんな筈ではなかった」という自分のこころの叫びと戦いながら、
彼らが自然体に戻ってゆく過程を私は「無人島の比喩」で述べてきました。
最後の慢心の自覚という精神活動で子どもたちは人生の階段を
確実に一歩昇ると思います。
慢心の自覚の実際は、「わたし(ぼく)は、こんなに小さかった」ということを
実感することにあります。
「小さい」というのは限られた経験、限られた知識、限られた価値観などに
代表されると思います。
余談ですが、私は子どもたちのパスポートを見て、写真と本人が余りにも
違うので「あっと驚く」ことがあります。
体の成長が顕著なように、その精神も外界の吸収に極めて柔軟に対応できる
時期であることは間違えなく、それゆえに「小さな自分」に
気付いてほしいと私は切に思っています。
生きてゆく力というのが、子どもたちの原点への復帰であるのに対し、
慢心の自覚というのは明らかにその応用編です。
この応用までたどり着ければ、私の仕事はほぼ終了したといえます。
技術的、精神的な遠隔からのサポートがなくても、自分自身でできる、
試してみるという意識を持てるということです。
この慢心の自覚がないと、大変なことになります。
いつまでも自己中心がまかり通るわけですから、
自分が気に入らないものは、自分の理屈で排除されます。
「無人島」に本人があったとすれば、生きる力を持ちながらも、
いつも仲間とぶつかり合ってしまい、結果として無人島で「一人」で
生きてゆくということになりかねません。
私は今までのカウンセリングでこの「無人島の比喩」を皆さんに述べ、
留学雑誌でも語り、講演においても必ず言及します。
そして、さらに今日、無人島で一人、生きてゆくという状況を考えるわけですが、
これはできたとしても「つまらない」といわざるを得ず、
慢心の自覚こそが、時代を超えて大切な私たち一人ひとりに課せられた、
これからの時代を生きる知恵ではないかと思うのです。
これまでたくさんの「慢心」君を私はお世話してきました。
もちろん、最後まで慢心な人はひとりもいません。
しかし、傲岸から解放されるためにはそれが作られた時間ほどの
長さの期間が逆に必要となるといった親の自覚が必要と思います。
もちろん、それがすべて留学期間中に行われる必要はありません。
時間をかけて、折に触れて、いつも原点を見つめて、
自然体で臨めば、素直な子どもたちの生きる力は必ず反応します。
生きる力をそのままに、少しずつですが、慢心を消してゆく作業を、
親と一緒に私は考え続けます。