小・中・高校留学-これからの教育6:常識を壊す
常識と思われていることも、異文化という鏡を通してみると、
全く非常識と思われることがあります。
サマースクールで勉強している生徒たちからの率直な印象をお母さん方が
いろいろと報告してくれます。当初の不平不満が解消されて、
あっという間に帰国日カウントダウンが始まる日々に、
「もっと長くいたい」、「長期を考えたい」といった意見が聞かれます。
短期のみならず、長期滞在の初期の混沌を抜け出して、「やることリスト」を
整理したり、優先順位を検討したりの忙しい日々などのメールをもらうと、
数ヶ月前の自分を見失っていた生徒たちの沈鬱な文書表現が
「うそ」としか思えません。
今までの生活や習慣から解き放たれて、迷い、悩み、精神はうつろうでしょうが、
結局は新たな自分に戻ってくる。
私はそんな「若さ」のダイナミズムに嫉妬すら覚えます。
今までの常識を覆すには、同じ環境にいて、同じ考え方の人たちのなかであれば、
とんでもない事件が起こらない限り、「常識」の地位は確固たるものだと思います。
ところが、コミュニケーションレベルが限りなくゼロに近づき、
周りは全く考え方を異にする人たちに囲まれると、常識と言うバリアは
いとも簡単に壊れて行くのかもしれません。
では「常識」とは一体、何でしょう。
留学という課題で考えるのであれば、常識とは学習の目的と
置き換えられないでしょうか。
では学習で見えてくるものは何でしょうか。
私は学習の目的は「楽しいこと」にあると思います。
「なぜ」を追究するということは、地球上で人間だけに与えられた、
特権的な生存理由への回答であると思っています。
その精神は年が低ければ低いほど、単純明快であり、
また行動も本来、伴えるものだと思います。
サマースクールで学ぶ10代の子どもたちを見ていると、
生きるための英語など1か月もたたないうちに理解し、
午前中の勉強をすんなり受け入れ、午後は先生やいろいろな国の友達と
溶け込んでいる様子が彷彿できます。
通常は「常識的」に学習の目的は組織から与えられます。
与えられる側がシステムと限定的な実績に裏打ちされているため、
自分の純朴なシステムや実績に関係ない「なぜ」は、論理的には勝てません。
「そうしないといい人生が送れない」となれば、若い精神はその闊達な
想像力を失い、「そうしよう」と納得せざるを得ません。
しかし、既存の常識が通じない世界では、自分で常識を作るようになります。
ですから、10代の子どもたちは、無意識に「待ってました」とばかりに
精神(この場合は好奇の目)を活性化することができるのだと思います。
日本のお菓子が異文化の子に受けそうだとか、
土日のアウティング(外出)はどこに行くのかなあと、
見るもの、聞くものが、彼らのこころにストレートに吸収されてます。
そして、行動もぐずぐずせず、さっさと行うようになる。
彼らが帰国して、何を語るのか。語れないかもしれません。
彼らは大人ではなく、感動を整理する意識回路はまだ機能しないかもしれない。
それでも、笑顔で聞いてくれる親がいれば、それで十分なのだと思います。
帰国が楽しみな日々です。