教育という視点からの日本と西洋のアート観
若き新進気鋭のアーティスト、赤井太郎氏によると
西洋のアートは視覚の世界であり、
日本のアートは生活に組み込まれた世界だそうです。
ニューヨークのメトロポリタン博物館や、
ワシントンDCのスミソニアン博物館で、
重厚な額縁に囲まれた大きな絵画と対峙し、
掛け軸、屏風、襖絵などの日本の絵画を思い浮かべると、
あるいはその逆でも赤井氏の西洋と日本の
アート観に深く同意できます。
彼によれば、西洋ではアート(この場合美術)はひとり一人の
価値観で判断されるそうです。
大きなカンバスの前で、絵の世界に引き寄せられ、
自分の視界が絵画で満たされるとき、
「心」が動けはそれが魅力的な絵だというわけです。
西洋文化が移入される前の日本美術は、空間ありきであり、
その空間に調和する美術なのではないでしょうか。
床の間に飾られるさまざまな掛け軸もその空間を邪魔しない。
襖絵も屏風絵も空間のサイズとスペースに合わせて、
作られ、その場の雰囲気をもり立てるが、
独り歩きは決してしない。
私は西洋と日本の教育の原点も同様ではないだろうかと思うのです。
「和をもって尊しとなす」、日本の底辺を司る文化と、
「個を持って尊しとなす」という欧米文化の象徴が、
教育の世界にも反映されていると思います。
日米の私立トップランクの難関高校を比較してみると
明確にアートの取り上げ方が違います。
アメリカではアートセンター(芸術総合館)、シアター(演劇場)は、
ボーディングスクールでは必須ともいえる建物で、
美術館のような趣もあります。
名門チョート・ローズマリー・ホールのアートセンター
そのデザインに「オー、粋だねえ」と言いたくなります。
絵を描いてみたくなる、音楽をやってみたくなる、
壷など作ってみたくなる、そんな魅力を発しているような、
建物がボーディングスクールにはあるのです。
アートで食ってゆくのは難しい。
しかし、アートを愛して、元気をもらい、
それが認められ、誉められることで「勉強だってやったる」
という考え方をしているのがボーディングスクールなのだと思います。
それが彼らの「個性尊重」への回答と実践です。
アート同様、学問という世界で食って行くのも難しいと思います。
問答無用に「知識」を詰め込むのはだれも望んでいない。
しかし、大学入試に必要だからやる。
アメリカではこの考え方は遠の昔に主力の座を「個性」に、
奪われていると思います。
アートを通じて見たボーディングスクールの一面でした。
前述しました、赤井さんはマスターオブアートの称号を持つ、
アートを愛し、自らも創作活動を続けている、夢のある若者です。
機会をみつけて、彼の作品もご紹介したいと思います。