ボーディングスクールの世界戦略
私の好きなボーディングスクールの入試担当者(アドミッションオフィサーと呼ばれます)の一人にJという人がいます。彼は御歳60あまりの初老の紳士で、ユーモアのセンスと教養があり頼りになるボーディングスクール教育を代表するような人物です。彼と初めて会ったのは15年ほど前、東京だったと思いますが、そのころから彼はアジアやヨーロッパなど世界中を旅して、卒業生との親交を保ち、学校の広報活動をして、新入生獲得のために奔走しています。どこの国に行っても、かならず親や学生との面接を行います。
活躍するボーディングスクールの卒業生
世界巡業の各国の拠点には、卒業生ボランティアたちがいて、新入生の紹介や、学校案内のレセプション運営を手助けしています。彼には有能な秘書がいて、彼女が事務処理を担当し、Jが世界のどこにいても的確に指示を仰ぎ、新入生が困らないように彼らのファイルを管理しています。Jの学校はペンシルバニア州にあります。Jの年間スケジュールはボーディングスクールが世界にそのマーケットを広げていることを示しています。
ボーディングスクールのオープンな受け入れ姿勢
ボーディングスクールは、その成り立ちからして来るものは拒まず去るものは追わずの精神があります。世界的規模で先進国の少子化が進む中で、80年代に多くのボーディングスクールがESLクラスの創設に取り組みました。また、ESLクラスをあえて設置せず、英語力のある留学生を受けいれていたボーディングスクールも、多様性(Diversity)を重んじ、すすんで海外からの学生に門戸を開くようになっています。
ESLについて
ボーディングスクールの機能を世界に開放すればマーケットを世界に拡大でき、結果として世界規模で優秀な自立した人間を育成できると考えたのです。ESLクラスはその後、さらに発展し留学生が現地の学生と同等の授業を取るメインストリームに入れない場合は留学生のための英語、アメリカ史、生物などを独立して勉強させるまでになっているボーディングスクールもかなりあります。
留学生を担当する専門の部門や人員も充実してきました。アメリカ人学生と違って、留学生はビザの取得、予防接種の追加、成績証明書の翻訳など事務処理が多くなります。加えて、英語が不自由な学生のお世話は自国生徒と同じには出来ません。留学生はESL費用などアメリカ人学生に比べて1-2割程度授業料が高くなりますが、現在では英語力がなくてもボーディングスクールへの留学は可能になりました。
このような留学生受け入れの歴史は70年台の後半に留学生マーケットとして石油産油国から多くの学生がボーディングスクールやってくることでスタートしました。そして次にバブル経済で活況の日本からの留学生が増加し、中国や韓国がその後に続き現在に至っています。学校も留学生たちも80年代、90年代は手探りで相互に適応の方法を考え、失敗し、学び、改善してゆき現在に至っています。
世界の親からの熱い視線
ボーディングスクールは人種のサラダバーなのだと思います。1950年代には白人の比率はかなり高く、修道院のような生活様式と一部のボーディングスクールには親の手に負えないような子供が行くイメージあったボーディングスクールも時代と共に変遷し、現在ではその教育の質と内容と実績が評価されて、授業料が高いにもかかわらず、かつてないほどの願書を世界中から集めるようになっています。そこで学ぶ生徒の多様性と個性の尊重を実践できる環境は、世界中の教育熱心な親から評価されていると思います。