♯2 アメリカボーディングスクールと大学での教育
<火曜日のブログに続きます>
アメリカボーディングスクール(ジュニアを含む)とリベラルアーツ系の大学での教育は驚く程に相似形というのが私の結論です。入試における相似形と同様の結論です。
アメリカボーディングスクールの教育で私が最も尊んでいるのは、彼らの主体的なクラス運営であり、学校活動であり、学校経営の方法です。
彼らは大学進学の実績を「合格校の数」ではなく「進学先校」としてリストにしています。スポーツや芸術、コンクールなどで生徒が優勝などしても垂れ幕などを掲げることはありません。
彼らは生き残りをかけて生徒募集のために世界を駆けまわりますが、生徒を駒としては考えていません。入学難易度には関係なく、一人ひとりとインタビューを欠かさないのは、それぞれの個性が自校に合っているかを確かめたいからです。手作りの教育がそこにあり、それはリベラルアーツ教育の原点であるものの見方、考えの徹底検証を目的としています。その理念に基づき、アドミッションスタッフが志願者を個別に確認する作業を怠ることはありません。
それが学校創立以来継続されていることに彼らの教育の価値があるのではないでしょうか。
これからの子どもたちが好むと好まざるとにかかわらずグローバルと呼ばれる社会で生きていかなくてはいけません。それが果たして、「偏差値の高い大学」に入学することだけで達成できるでしょうか。教育とは、そのようなものでしょうか。
グローバルに対応できる教育とは、少なくとも、本人の能力や感性が社会に役立つものであるべきだと思います。それが、出身校で判断されるでしょうか。知識の多さや学習力の素早さだけではないと思います。
多くを読み、多くを感じ、多くを表現し、多くの意見を交換して、結局、自分の方向性や指向性を理解することが教育には求められると思います。
それをすなおに追求できるかどうかがこれからの個人の人生の在り方を左右するように思います
そのためにも、中等教育時代の過ごし方が問われるように思います。
中学高校は、決して大学の予備校ではありません。その時代にこそ生徒が成しうることがあるはずです。
つづく