異文化を受け入れるということ
先週の土曜日、留学生の孤独について考えましたが、
今日は異文化を受け入れるということについて考えてみたいと思います。
基本的に受け入れるという考え方は、留学に特定されるものでなく、
生活のなかではとても重要な要素ではないかと思います。
文化が同じであっても、日常のなかで受け入れることの難しさを
体験しない人はいません。
新しい学校、職場、家庭など、言葉は同じであっても、組織として
求められる役割が違えば、当然、人間関係の軋轢が生じます。
留学という異文化は、自分が今まで属していた要素をすべて変えるがゆえに、
ゼロからの出発ということが、若い世代には、好奇心を刺激するものと思います。
まだ見ぬ世界、未知の領域ということに、わくわく感を覚えるのも、
「若者意識」の特権ではないかと思います。
渡航して1-2週間、「帰りたい」、「もう無理」などと気持ち任せに親に
メッセージを送る生徒たちもいますが、それを実行する生徒は極めて稀です。
また、小学校六年生で留学して、不満を一切親に言わないという根性のある
留学生は珍しくはありません。
彼らは、静かに周囲を観察し、友達や先生を選定して、
自分の生活基盤を確かなものにしていきます。
到底無理と思われる現地での学習負担や課題も、いつの間にかこなしています。
もちろん、彼らが短期間の間に、学習技術や語学力を
飛躍的に伸ばしたのではなく、本人を取り巻く人々の
積極的な協力があるからこそ、それが可能になると思います。
留学生たちは、異文化のなかで、自分の不備を受け入れます。
そして、それを補うためにどうしたらいいかを考えます。
そこで見えてくるのが、英語圏の自主性、主体性といったことでしょう。
今までの講義形式の授業は、ほとんどなくなり、自分で学び、共に考え、
役割を分担し、結論に至るという学校での作業を受け入れられる
意識の柔軟性はこれからの世界を生きていくうえで
必須の要素ではないでしょうか。
新しいものを受け入れるということに、年齢制限はないと思いますが、
言語を覚える過程からみても、自分が出来上がってしまっているよりも、
自分とは何かという課題に無意識に積極的になれたほうが、
受け入れの質と量がいずれも高いと思います。
あるボーディングスクールの生徒指導部長にあたる人が、
{生徒の規則違反に対して、最も憂うべきは、
彼らがそれから学ばないことだ」と言いました。
「人は間違えを犯すものだ。それを受け入れ、同じ過ちを繰り返してはいけない」と彼の言葉は続きました。
異文化を受け入れる、留学生たちのチャレンジの精神を私は
出来る限り応援したいと思います。