ぶれない教育 - 競争の在り方への疑問
中学受験情報に詳しいお母さんから聞いたのですが、その準備のための予備校は、
各教科で強いところが決まっていて、
そこに入ることからすでに競争が始まるのだそうです。
合格させることが目標になる予備校では、受験の新たな傾向にも敏感ですから、
それに対応するため、小学生に課せられる学習負担は、増えることはあっても、
減ることはないように思います。
最近の傾向は「書くこと」の重視だそうです。
小学校の高学年から、書くことの課題が与えられるのだそうですが、
ある学校では社説に対する感想文が課題だそうです。
その宿題を毎日こなしながら、さらに受験のための準備として塾や予備校に
通うとなると、週末まで生徒たちが自由に過ごせる時間は極端に
少なくなってしまいます。
それでも、その流れに乗れなければ、「受験」が成就しないわけですから、
生徒たちの自由度は制限されたまま、小学校を終えなければなりません。
結局、10歳にもならない頃から、絶えず競争にさらされているのが、
日本の教育の現状となっていると思います。
その競争が、細分化される傾向は、今後強くなっていくように思います。
たとえば、英語4技能が大学受験に採用されれば、
その対応も細かくならざるを得ないわけです。
既存の高校にしてみれば、今まででも受験のためにやることが多かったのに、
どこを削って、どこを増やすかなど、その対策に追われる現実は、
教える側、教えられる側ともに、大きな物理的、精神的負担を伴います。
書くことにしても、英語の四技能にしても、それが受験に組み込まれる
その根拠は、これからの社会のニーズに踏まえてとなるでしょう。
では、それを受ける生徒側は、果たして社会のニーズにそこまで敏感に
反応できるでしょうか。
少なくても、生徒たちが日常で興味の持てない分野のことを
半ば強制されても、効率よく学習できるとは思いません。
主人公である学ぶ側がいつのまにか主人公ではなくなり
教育そのものが、観念的な目標に翻弄されているように思えてなりません。
英語四技能を試験しても、大学を出た学生たちが、英語を話せるように
なるとは思いません。
四技能を最も必要としているのは、受験生ではなくて、
現役の大学生であり、さらには、会社で英語が求められている
社会人の人たちです。
受験における競争は、あくまでも知識の競争です。
教育がその主人公である受ける側にとって、より納得できて、
本来のすばらしさを教えるものであるためには、受験のやり方を
見直す必要があるように思います。