百聞は一見に如かず
唐突なタイトルとなりましたが、改めてこの言葉の重さを感じる出来事がありました。
コロナが流行する前までは仕事柄、海外へ頻繁に出向くことが多く、その度のホームページなどで利用するための風景素材を写真に収めて大量に保存していました。そして年末のお休みを利用してこのデータを動作の怪しくなってきたPCからバックアップのためのUSBに収める作業をしていました。ふと先日、そのUSBをPCで読み込もうとすると認識しません。「あれっ?」と最初は事の重大さを理解できずに色々なPCに差し込んでみましたが反応がありません。すでに動作の怪しいPCからはデータを削除してしまっていたため、すべてのデータはこのUSBに入っています。一瞬にして過去6年ほどで撮りためた数千の風景写真データへのアクセスが出来なくなってしまいました。
このような場合にデータを復旧してくれる業者さんがあるようでしたので、問い合わせたところデータの復旧にはかなりの高額な費用が掛かることが分かりました。一瞬迷いましたが、最終的には復旧をしてもらうことしました。写真素材は有料ながらオンラインでいくらでも奇麗なアングルのプロの撮影した写真が手に入ります。それでも今回は泣く泣く高いお金を払ってデータの復旧を選択しました。
なぜか? 一枚一枚の写真に紐づくエモーショナルな部分がとても重要だからと考えたからです。オンラインで同じ対象物を同じアングルで撮った写真があったとしても、その写真を見ても写真を撮った時の五感を通じて感じられる記憶を呼び戻すことは出来ません。それらの写真はあくまでも写真は画像データでしかないのです。しかしながら、自分で撮った写真はその時に五感で感じたあらゆる感覚を呼び戻してくれます。「ああ、あの時は暑かったなあ」「この後にこんな出来事があったんだったなあ」など写真に紐づいたストーリーが脳裏に呼び戻されます。写真がきっかけとなって呼び起こされる豊かな記憶を失うことの損失は数千枚という物理的なデータを失うよりもさらに大きい損失になると考えての決断でした。
今回の「百聞は一見に如かず」というタイトルですが、今はネットを通して得たい情報が簡単に手に入る世の中になりました。「百聞」を満たしたいと思えば、ただただPCの前に座ってパソコンのキーワードを叩けば、短時間に、そして大量の情報にアクセスできるようになりました。一見便利で一定の満足度はあるかもしれませんが、それらの情報は「一見に如かず」なのだと思います。文字や写真から得られる情報はその表面にある情報以下でも以上でもありません。一方で自らの経験を通して得られた情報には数倍以上の奥行きがあります。
ネットを通しての疑似的な体験ではなく、実際に自分自身を通して体験することの重要さは今も昔も変わらないと思います。自分自身が経験した事を後からネットで調べるときの充実度と単に知りたい情報をネットで調べるのでは気持ちの充実度が違うことはたぶん皆さんも経験があることでしょう。
オンラインで出来るのに、なぜわざわざ留学をしないといけないの?非効率じゃないですか?と問いかけをしてきた生徒に実体験をすることの意義をどうしたらうまく説明できるだろうか?と考えている時に私なりの答えが上のような答えでした。
結局のところ「一見」の部分をどれだけ多く経験できるか?これが人生を豊かにするための糧になるのではないかと考えています。そしてそれはPCの前に座って効率的に吸収することはなかなか難しい。とても非効率な作業ともいえるかもしれません。
留学についての本や動画は沢山見ることは出来ます。しかしながら、結局は自分が行って、見て、体験して、初めてその価値に気付くのです。そこに至るまで、子供たちは多少時間がかかるかもしれませんが、いつかは理解してくれる事を現地で頑張っている留学中の子供たちには伝えたいと思います。